ライフハッカー: 「話せば分かる」は間違い!? ──正しいコミュニケーションとは ~ 本は読んでないけど1つ賛同

ライフハッカー[日本版]: 「話せば分かる」は間違い!? ──正しいコミュニケーションとは.

ここに紹介されている本『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』(北川達夫、平田オリザ著、日経ビジネス人文庫)は読んでいないけれど、この紹介記事の最後の方に書かれている

「わかり合えない人間同士だけれども、どうにかして共有できる部分を見つけ、それを広げてなんとかうまくやっていけばいい」という考え方を基本とすべき

という見方は、私も昔から思ってきたことだった。

論理学(哲学の一部、でも数理論理を含む)などで議論する「西欧論理」は、『文化的な共通基盤がないのだけれど、それでも分かり合えるための、最低限のルール』、なのだと思っている。西洋では元々南のラテンと北のゲルマンなどとの交じり合いや、東方交易やアフリカとの接点で、さまざまな異文化とのふれあいがあり、その中での最低限の話し合いルールが確立されていったのではないかと思う。その1つが「論理」(もっと他にもあるはずだが私はよく知らない)というのが私の理解だ。

歴史を見ると日本人は、異文化・異なる考え方の人たちに接する時に、あるパターン以外にうまくやれている方法がないような気がする。そのパターンは、相手を奉って無条件に輸入し、そのあとやたらにがんばって自分のものとし、鎖国してしまう。 遣唐使の時代に大陸の文化を奉って、そのあと関係がほとんど切れている中で日本化した。明治維新の時も欧米(もっぱらヨーロッパ)の文化を奉って、そのあと国内で日本化のプロセスが進む一方で、列強の帝国主義の中で孤立し相互理解は出来なくなっていった。戦後も同じような繰り返して、1980年ぐらいまでは一方的に欧米(こんかいはアメリカ)を奉って、そのあとどうだろう?日米貿易摩擦などというときに、共通の前提がない中での相互理解というよりは、国内での日本化が進んで孤立して行ったのではなかろうか? どのパターンも、「共感が出来ないことを前提に相互理解する」という方には進まず、「共感できるよね、一生懸命輸入したんだし」ということで進んだように見えるのは、気のせいか? それが飽和点に達し、どうしてもこれ以上先へ進めなくなったとき、大きな齟齬が起こる、というモデルは、考えすぎか?

この本、読んでみよう。