@IT: 日本の教育が「暗記」から抜け出す日 ~ で紹介されている「私は勉強が嫌いだ」について ~ 「勉強=暗記」しか教えない学校への反省
@IT: 日本の教育が「暗記」から抜け出す日.
この中では3本の記事が紹介されているが、そのうちのブログ「プログラマで、生きている」の「私は勉強が嫌いだ」については、つくづく、「勉強=暗記」しか教えない学校について反省させられた。
自分の子供が行っている学校に授業参観に行った時にびっくりした。「教科書のここに下線を引いてください。ここが覚えるところです。入試に出ますからね。」 そういうものか?
上記のブログでの「先輩の言葉」の中の、「自分に本当に必要なことならイヤでも覚えるから問題ない」ということば。 本当にその通りだと思う。 学校で教えて欲しいし教えたいのは、まずは(1)いろいろなことがある、ということ、と、(2)考えるすじみちの例をたくさん。 (1)は、ものの価値や見方が、今時分が知っているものだけではないということに気づいて欲しいということで、そこから改善なり発見なりの一歩がはじまるから。そうでないと、人間は進歩しないと思う。 (2)は、(暗記できるような)事実は上の先輩が言うように必要なら覚えるが、ものを考え出す筋道は教わらないとなかなか気が付かないし身に付かないから。
こういう「メタ」なことを教えて欲しいし教えたいと思う。でも、学校では、こういうメタなことは(できるかどうか、分かったかどうか)量ることが出来ないので、教える対象にならない。また教え方もよく分からない。だから教えない。 では、具体的な「モノ」を教えるのはなぜか? 多分元々は、そういうメタなことを分かるための例として教えたのだろう。 教え方も分からないようなメタな知識を教えるには、具体例をたくさん出して、「この中から自分で汲み取れよ」と言うしかなかったし、メタなことは言葉で伝えても身に付かないので、具体的なことをやってみるのがよかった。 それがいつの間にか、モノをたくさん知っているのがよい、それも手の内に入っているというのではなくて、言葉で暗記したものが。(量るのが簡単だから!)
多分、メタなものを受け取ってもらうのがよいが、そのための方法論は一向に確立しない、という状況は変わっていない。そして、いまでもコトをたくさん見る(特にやってみる・手の内に入れる)のがよいのは、変わっていないと思う。 職人のワザを伝える時の様子を見よ。 学校は本当は、そんなことをするところであるべきなのだろうと思う。 しかし、自分の目の前に学生がいるときに、何をしたらそれに近づくことができるのか? その学生が、「勉強=暗記」であり「学校では成績さえとればよい」と信じさせられている中で。