WIRED.jp: フランク・モス:手と頭を使って失敗を繰り返し続けること。そこにしか未来はない ~ 教育・大学の役割も変わる

WIRED.jp: フランク・モス:手と頭を使って失敗を繰り返し続けること。そこにしか未来はない.

一部のみ紹介するが、

いま西側諸国は(ここには日本も含まれると思いますが)子どもたちにいったい何を教えたらいいのか途方に暮れてしまっているように見えます。小中高大と順を追って進学させていくなかで、わたしたちは子どもたちにリスクを避けるよう条件付けてきたのです。そこに未来はありません。未来はリスクを取り、失敗に学ぶことからしか生まれてきません。大きな志、大きな思考が生まれてくることを、いまの教育は妨げてしまっているのです。

(中略)

MITでは先生は知識を授ける存在ではなく、ともに学び、ハードウェアであれ、ソフトウェアであれ、ともにつくっていく「師匠」のようなものとして存在しています。魔法使いと弟子の関係です。生徒をインスパイアし、リスクを冒すよう勇気づける存在なのです。

大学について言えば、オンライン講義がこの1年でホットなトピックになったことで、大学自身もいったい何を学生たちに授けるべきなのかを考えるようになってきています。MITもそうですが、すでに先進的な大学では、授業をよりインタラクティヴに、学際的(Anti-Disciplinary)に、そして実体的な体験を重視する方向へと変わってきています。つまり対話を通して何を学ぶかが重要になってきているのです。メディアラボが長年やってきたのは、まさにこのことなのです。

何となく体では感じていたことを、的確に語っているように思う。更に中略して続く、

必要なのは学位ではなく、生きたスキルと失敗から生まれた大胆な発想なのです。メイカームーヴメントと来るべきフリーランス社会は、仕事のあり方を根本から変えていくでしょう。そしてそのことによって、「学ぶ」ことの意味も、教育のありようも根本から変わっていくことになるのです。

さて、我々が教育の場で今まで伝統的に行ってきたことは、知識やスキルを(1)体系化して(2)一定期間内に収まるように適宜取捨選択して(3)なるべく脱線しないように最短距離で、習得させることだったように思う。 これは特に、最先端に行き着くまでの距離が年を追って長くなっている現状では、限られた年限で最先端までたどり着くためには、知識獲得の効率が求められていたことによるのだろうと思う。これを推し進めた結果、どうも我々の生徒たちは考えることを止めてしまっている。その方が楽だから。更には、固定したパターンで処理する(理解する、先へ進める)ことが、効率を上げる方法だと考えてきた。

もちろん他方では、「考えること」の大事さを強調してきた。「自分で考えよ」と唱えてきた。でも、自分で考えるための環境・道具立て・要素はすべて準備してやっていたような気がする。そのあたりも込みにして、自分で荒れ野に踏み出して行く手立てを考え、改良し、学んでいくプロセスは、十分には踏ませていないような気がする。 それが、新しいものを考え出せないでいる「典型的日本学生」の根源なのかもしれない。

一定の簡単な道具立てだけ与えて、「あとはいろいろ試してみな」と放り出し、教師側はじっと我慢して待っている、もしくはこの記事に言うように、教師もともに学ぶ、という姿勢がいるのかもしれない。それができるためには、効率の良い知識習得をあきらめる部分が必要なのだろう。

つまらないことだが、自分の大学で来年度の予算に、教室の机の配置を変えられるように、今までの前向きの固定の並び机から、小さな個別の机に置き換えるプロジェクトを提案した。予算が通るかどうかは分からないが、教育の方法の切替えには、教員への啓蒙活動だけでなく、物理的な環境の変更も必要だろうと思ったからだ。 理想から言えば、教員が「学生に学ばせるような」もしくは「ともに学ぶ」ような教育を≪せざるを得ない環境≫を作ることが出来れば、改革は一気に進むだろうが、そううまいものは思いつかないのが現実だ。

どこまで、知識伝達を犠牲にするか、という点での、教員間のコンセンサスを作ることは、なかなか難しそうだ。 たとえある面、ある科目でうまく行ったとしても、「自分の科目は違う」と言うだろう。今年はこれが仕事のうちの最大の重荷になりそうな気がする。

 

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Posted by yamanouc