WIRED.jp: 「未来の学校」と子どもの未来:シンガポール発・ICT教育の最前線 ~ AIによる「教育」でいいの?
WIRED.jp: 「未来の学校」と子どもの未来:シンガポール発・ICT教育の最前線.
コンピュータインフラを使った教育の紹介だが、1つの例としてHOLAというAIを使った質問応答システムが取上げられている。これはコンピュータがダーウィンやシェークスピアになり切って質問に答えるというもののようで、う~ん、どうなんだろう?
説明に曰く
HOLAの例でも顕著だが、ICT教育で最も特徴的なのは、生徒が責任と自主性をもち、独立独歩、自分の学習を進めていく点だ。
読者のみなさんも含め、現在20歳代以上の世代に最もなじみのある従来のクラスルームでは、教師が言わば“知の番人”であった。科学であれば重力の不思議、数学であれば関数の不思議を解くカギを握っているのはすべて教壇に立つ教師だったのである。
そしてその教師から分け与えられるものを知識として吸収していくというのが基本だった。つまり知識のヴェクトルは、教師→生徒の単純一方向であり、その逆はありえなかった。
しかし、シンガポールのフューチャースクールが実践するICT教育では、各個人が、所有するモバイル端末をインターネット上に広がる無限の知にアクセスするツールとして駆使、各々の学問的関心に従って、学校=先生の枠を飛び越えた先のリソースをたどり、独自の学習を追究することができる。
つまりこの時点で教師はすでに“知を授け与える存在”ではない。子どもたちが正しい方法で、正しい情報ソースにたどり着き、正しい解決を導くプロセスを見守る“ガイド役”へとその役目が変化しているのだ。この教師が新たに司ることとなった21世紀的役割を「ファシリテイター(Facilitator)」と呼んでいるが、文字通り、生徒の自立した学習スタイルをファシリテイト(=促進)する存在なのである。
この説明は、ある程度納得できる。 そもそも教育は本来生徒個別のものであるはずだった。 効率を考えて(つまり大人が個別の子供にそれだけの時間を割けない)、子供を集めて(少数の)教師が教えるシステムが出来たのだろう。(歴史的には違っているかもしれない。でも、現状の認識はそうだと思う) だから、ICTによって個別教育に戻れるのなら、それがよい側面はたくさんあるだろうと思う。 個別の子供に合わせたやり方、特に進度だけでなくてやり方、説明の筋道、考え方の筋道などの選択が出来る可能性がある。
ただ、私の勉強不足かも知れないが、AI的なものが、子供たちの考え方をはぐぐむような仕組に作れるとは、どうしても信じられないのだ。 個別の知識を伝達することは出来るだろう。 でも、前の記事「」にあったような、試してみて工夫する、考え方を開拓する、といった部分は、機械では限界があるだろうし、特に今の機械では下手をするとまったく考慮さえされていない、知識の量さえ増えればよい、となっているように見えてしまうのである。
では、知識の獲得の部分だけを機械が行って、(その分の教師の負荷を減らして)教師がもっと「試す」とか「考え方の開拓」とかの部分に時間を使う、つまり役割分担をするというのはどうだろうか? 可能だろうとは思うが、かなり気をつける必要がありそうだ。 学生を見ていると、知識として知っていること(習ったこと)は、試そうとしないのだ。 試してみる意欲が、知ってしまうことで、かなり減退するように見える。 また一方で、「知っている」ことが価値であって、その価値を満たしたから「もういい」と考える向きも散見される。 例を挙げると、高校の数学で微分を習う。 微分の原理や考え方は一通り「知識として」習しい、その消化はさておいて、(多項式の)微分(導関数)の計算のやり方を習い、導関数の使い方も「知識として」習う。 だから、「増減表」が書ける。 では、多項式の導関数は求められるか? 「なぜ、xのn乗の導関数がn×xのn-1乗になるか」ということである。 「公式」として知っているからそれで十分だと反論されてしまうが、自分で計算することだってできるはずだ。 それを、してみようとしないのである。 ヒントをいくら出しても「いや公式ですから」と言い「習っていません」と言うのである。 知識のみが先行することの問題が、ここにあると思う。 おそらく、適切な時に、適切な実験と失敗を繰り返すことが必要なのだと思う。 それを「知識」として覚えてしまうがために、疑問に思わずに通過してしまう。
だから、この記事に書かれているような知識習得支援は、とても不安なのである。