WIRED.jp: スガタ・ミトラ:インターネットを介した「学び」は既存の教育を消滅させる ~ 消滅させるかどうか分からないけれど「教育とは何か」考え直す必要はあるね

WIRED.jp: スガタ・ミトラ:インターネットを介した「学び」は既存の教育を消滅させる.

おもしろい話でした。教育とは何かを考えさせられます。

今、自分が携わっている「教育」が、その受け手にとってどんな影響・効果があるのか、色々な観点から見直す必要があるような気がします。

このミトラ先生の言っているのは、人は必要によって学ぶことができる、ということだろうと思うのだけれど、そこまではまったく異論はない。 おそらく、必要があって学んだものは、確実に定着するだろうし、後から役に立つ度合いも(教室の)勉強よりずっと高いだろう。ここまでは賛成。

問題は2つあって、1つは学びの効率、もう1つは学びの一定の網羅性。 この2点は、必要に夜学びだけではどうしても抜け落ちる点である。 学校(大学)で教育する時に心がける点として、この2点は欠かせない。 では、この2つは本当に必要か?

この2点を中心にして学んだ我々教員は、どうしてもこの2点が欠かせないと思ってしまう。 一定の期間で一定のレベルに達しようとすると、最近の学問の発展・細分化を前提とすれば、ある程度効率的に学ばなければならない。色々な事を試したり失敗したりしながら学ぶことは、その学びのプロセス自体が非常に大切なのであるが、どうしても時間がかかる。 その時間をケチらないことには、望まれるレベルに達しないのである。 教科書も学校の授業も、その効率を高めるための道具である。 体系立って筋道を案内し、これは必須・これはオプション・ここは間違えるな、と道に迷わないように「教える」のである。 また、「抜けがない」というのも、それなりに重要なことである。

他方で、あまりに効率よく水先案内してしまうと、知識や考え方やその他もろもろの身につけて欲しいことが身に付かないうちに、す~~っと通り過ぎてしまう欠点がある。必要によって学ぶ場合、必要なポイントは通り過ぎることが出来ないだろうから、身に付くことになるのだろう。 また、学ぶ動機があるから、定着率も高くなるのだろう。

まったく水先案内が無しで学ぶのは、多分「よいこと」なのだと思う。 必要性による動機付けが行われてこそ、知識や考え方が十分に定着し、自分のものとなるのだろうから。 学校における教育でも、このような考え方を取り入れて、ただただ効率よく知識や考え方を(自分で考えずに)取り込ませるだけではない教育に、変化していく必要があるだろう。 というか、そういう声があちこちで叫ばれている。 しかし、それではおっ付かないだけの勉強量(学んでおいた方がよい様々なこと)があるのが、現状ではなかろうか。 ちょうどよいバランスが、どこかにあるのだろうと思う。

 

教育, 日々

Posted by yamanouc