nikkeibpより、田村耕太郎の「経世済民見聞録」 「フィリピン英会話はアメリカで通用しない!」

田村耕太郎の「経世済民見聞録」  「フィリピン英会話はアメリカで通用しない!」  米名門校の学生から正統派英語を身につけ、世界で通用する人材に
という記事を見た。

まず、言い分には大賛成。ある程度きれいな英語は、ぜひ必要である。 訛りのある英語は、それだけで内容の価値を下げてしまう。

「きれいな英語」は、この記事にあるように、一定の教養のあるネイティブスピーカが使う程度で、よかろう。 日本語で考えてみよ。 品の無い言葉使いで、新技術の売り込みをされても、買う気がしないだろう。 ことばは、単に発音だけでなく、語彙の選択や表現の選択、節度の表し方、相手を尊重する表現など、いろいろな要素がある。 それら全体が、教養のある、品のある使いまわしであって欲しいのである。

さて、英会話の練習の話。 小生は勉強不足で(品のある言い方だと「寡聞にして」というところか)、フィリピンあたりの人を相手に英語の練習をするサービスを提供するビジネスがある、ということを知らず、驚いた。 なるほど、うまいビジネスモデルである。 惜しいかな、この記事に言う如く、結果として見につく英語の質に、問題があるようだ(全ケースが問題あり、というわけではあるまいが)。

小生自身の経験を紹介しよう。 小生はカリフォルニアの大学に留学させていただく(国費だったので、皆さんの税金で留学させていただいたと思っている)機会があった。 この時に身に付いた英語はカリフォルニアの大学的な発音・語彙・表現・態度であり、後に就職してから「お前の言い方は何だ!」と随分言われた。なぜなら就職先が東海岸出身の企業だったから。 いや難しいものである。 その後、改めてイギリス風の英語学校に行ったりしたが、表現は気を付けていれば治せるが、ひょっとしたときの語彙や発音は治らない。 最初に身に付いたものが残っている。 バーナード・ショウの「ピグマリオン」(映画「マイフェアレディの原作)で、主人公のイライザがヒギンズ教授に英語を矯正してもらうのだが、それみたいであるなあと思った。 だから言おう。 初めが肝心である。 良い先生について習うことだ。

では、普通の人が、イギリスの高貴なる英語を身に付けたとしてどうだろうか? たとえば、オクスフォード大学やケンブリッジ大学で身に付ける英語というのがあるそうだ。アメリカでも、東海岸の名門大学、特にハーバードやブラウン辺りでの英語は、(わざわざそれを使うやつは)一目で分かるのだが、「いいか」と言われると疑問である。 普通の会話としては、どうしても鼻持ちならない感じがする。 一緒に何かしようという気にならない。こちらが見合うだけの良い育ちをしていないせいなのだろうが、それにしても、いや鼻持ちならない。

さて、小生の少ない経験によると、非ネイティブの人たちがしゃべる英語にも随分と幅がある。たとえば香港は子供の時から英語も齧っているので、語彙は豊富であるが、発音はネイティブの者とは違う(つまり訛る)のでわかりづらいことがある。アクセントはよくまねてあるので、我々から見るとあんな音で分かるのかなという具合でも、英米人にはよく通じるようだ。また語彙が豊富なので、機関銃のようにしゃべり、伝えたいことを伝えてしまう。これもコミュニケーションの一法である。 インドも教育を受けている人は英語で受けている場合も多く、英語が達者である。発音はやはりわかりにくいことがあるが、品の良い英語をしゃべる人が多いと感じる。昔イギリスが宗主国であったためか、イギリスへ留学した人も多く、イギリス風の丁寧な(アメリカ英語から見ると持って回ったように見える)表現をすることもよくある。南米の人たちは、スペイン・ポルトガル語で育っているから、語彙は共通のものもあってしゃべるのがうまい。など。 この記事で話題になっている、フィリピンはどうだろうか? 小生はほとんどフィリピンに経験が無いので分からないが、現地の普通の人たちはタガログ語を日常語にしている。歴史的には、最初に影響を与えたのはスペイン系で、次に太平洋戦争のころに日本が影響を与え、その後アメリカが影響を与えていた。

別のシナリオとして、早稲田大学の試み (早稲田はいかに人を育てるか 「5万人の個性」に火をつけろ (PHP新書) 白井 克彦 著) の中に、東南アジア(国は忘れた)の提携大学の学生と、メールやチャットで英語でのコミュニケーションをさせる、というものがあった。 これは、会話ではなく、書いた英語であるし、返答するまでに多少のタイムラグが許されるので、読んで理解する時間の余裕がある点が、会話と異なる。語彙や表現力を身に付けたり、日本人ではない相手のものの考え方が分かるという点で、有益だろうと思う。 この場合も、語彙や表現があまりに品が無いと、あとで困るのだが、書いたものでの交流であるからあまりに乱暴な言い回しなどは考えにくい。そういう意味で、妥当な選択という気もする。

いずれにせよ、英語は社会に出てから必要になることが多い。 研究室の卒業生は異口同音に、何が足りないって、英語ですよ、と言うのだから。 大学もできるだけの工夫をしたいし、高校までの教育ももっと工夫をして欲しいと思う。 少なくとも、英語が嫌にならないことと、最低限(中2~3程度)の読解力と。

教育, 日々

Posted by yamanouc