「大学改革実行プラン」(6月5日に発表)

文部科学省が6月5日に「大学改革実行プラン」を発表した。内容を見ると、今年の3月26日に中教審大学教育部会が公表した「審議のまとめ」を反映しているらしいのだが、中教審は役人に対して提言をするのに対し、文科省の今回の「プラン」は役人が「こう実行します」という政策を述べているようだ。

大学の現場とどの程度すり合わせをしたのかは分からない。現場とは関係なく「こうする」と言ったのかもしれない(そう見える部分もある)。でも、とにかくこれが文科省の実行する政策となるはずのものである。単なるかけ声とかアドバルーンであるはずが無い。現に、この文科省のホームページでは、

「大学改革実行プラン」は、あるべき論を示すのではなく、24年度直ちに実行することを明らかにし、今年と次期教育振興基本計画期間を大学改革実行期間と位置づけ、計画的に取り組むことを目指します。大学改革実行期間を3つに区分し、PDCAサイクルを展開します。
・ 平成24年度は、「改革始動期」として、国民的議論・先行的着手、必要な制度・仕組みの検討
・ 平成25、26年度は、「改革集中実行期」として、改革実行のための制度・仕組みの整備、支援措置の実施
・ 平成27年度~29年度は、取組の評価・検証、改革の深化発展
を実施し、改革の更なる深化発展を行います。

と言っている。さあ大変だ。

内容は、というと、

「大学改革実行プラン」は、2つの大きな柱と、8つの基本的な方向性から構成されています。
1つ目の柱が、「激しく変化する社会における大学の機能の再構築」であり、
1. 大学教育の質的転換、大学入試改革
2. グローバル化に対応した人材育成
3. 地域再生の核となる大学づくり(COC (Center of Community)構想の推進)
4. 研究力強化(世界的な研究成果とイノベーションの創出) を内容としています。

2つ目の柱が、そのための「大学のガバナンスの充実・強化」であり、
5. 国立大学改革
6. 大学改革を促すシステム・基盤整備
7. 財政基盤の確立とメリハリある資金配分の実施【私学助成の改善・充実~私立大学の質の促進・向上を目指して~】
8. 大学の質保証の徹底推進【私立大学の質保証の徹底推進と確立(教学・経営の両面から)】 を内容としています。

どれも、それぞれの大学が長い間単独で取り組んで、なかなかうまくいかないポイントである。多分「ものすごく大変」だろう。

自分に関係ありそうな視点から、1つ1つみてゆこう。

1. 大学教育の質的転換、大学入試改革

a.主体的に学び・考え・行動する人材を育成する大学・大学院教育への転換 (学修時間の飛躍的増加・学修環境整備等)

これは、日頃常に感じていることであるし、学生にも「少なくとも1時間の講義に対してその2倍の予習・復習の時間を使うことを前提にしている」と言い続けている。3月26日の中教審「まとめ」に強調されており、その中には実態の調査結果も載っている。自分でもアンケートを取ってみたことがあるが、「高校の時も授業時間以外の勉強はしなかった。今もしない」という答えが多くみられた。受験勉強をした学生はそれでも家で勉強するという経験があるが、推薦入学などで入った学生はその経験すらない。授業中に練習問題を解いたのが精一杯である。

別の記事でも議論したが、授業時間を知識の伝達に使うのはもったいないという議論があり、賛成する。しかし、高校までで時間外の学習をしたことが無い学生に、知識伝達の部分は予習して来い (米国の大学で言う、リーディングアサインメントである) と言っても、結局何もできない。

更にいうと、習慣が無いだけでなく、自習のやり方を知らないという問題がある。高校までの教育で、自習はしなくてもよいことが習慣化しているので、自習のやり方を身に着ける機会が無いのである。 最初に手取り・足取り、教えてやってほしい。本を読んで、それを整理して、整理できたことを簡単な練習問題で試す、といった一連の手続きである。

もう一段突っ込むと、最近本を読めない学生が徐々に増えている。本つまり活字の並んでいるのを見ると、その途端に眠気を催すようで、ゼミで対面で基本的な本を読んでも、いつも10分としないうちに眠ってしまうのである。 こうなると、本から知識を吸収することはできない。 それこそ、何かゲームのような形に作ってやって、ゲームをしながら知識がいつの間にか習得できている、といった仕組でも考える必要がありそうだ。 敢えて言うと、昔はこのような学生は高校すら卒業できないし大学へ進学しようとも思わなかったであろう。 「全入」のなせる技でもあるし、更には高校への「全入」と「ほぼ落第なし」がなせる技であろう。

これらのことは、文科省も理解しているようで、次のポイントを挙げている。

b. 高校教育の質保証とともに、意欲・能力・適性等の多面的・総合的な評価に基づく入試への転換の促進

高校教育の質保証は、全入+全卒の中で、かなり難しい側面がある。文科省は大学入試を変えることによってこれを変えようとしているとも取れる。高校のかなりの部分は大学進学を1つの目標にしているから、入試制度を変えればその部分は変わる。現在の大学入試が、ともすると知識さえも問わない、また、上で議論したような勉強への意欲や勉強の習慣も問わない、という状況にあることを反省しようというのだろう。文科省は、知識偏重と言われないためだろうか、微妙な言い回しをしている。受験時点の知識が不十分でも、意欲・能力・適性があればいいだろう、となかなかうまいことを言っている。だが、現実に評価をする大学の立場からは、この正当な評価はえらい難題である。

2つほど、予め考えておきたい問題がある。 1つは、この評価は1次元的ではない。意欲・能力・適性などというものは、評価する学校により、学科により、さまざまな違った尺度で評価してよいはずのものである。その中には、評価者の主観によらざるを得ないものも出てくる。いわゆる試験の「公平性」は期待できなくなるだろう。これを大前提にして欲しいのである。曰く「入学試験は公平なものではない」。 国立大学の場合、税金を使うのだから一定の公平性は求められる。しかし、すべてを客観的に(=誰が見ても同じ点になるような方法で)点数化する、といったことは期待してはいけないのだと思う。そこを許す社会でないと、入試を実行できない。 現在のペーパーテストによる入試は、出題の不公平はあるにしても、それ以降、つまり試験の実施・採点・入学者の決定まで、基本的にテストの点数のみで決めている。面接のような主観の入るものは、(AO入試などを除けば)「許されない」と思われている。そこを変革する必要があると感じる。

2つ目は、大学進学のみが生き方ではないという価値観を確立してほしい。全入であればこそ、逆に、大学に行かないという生き方をもっと尊重して欲しいのである。選抜する立場からしても、他の生き方があることが「落とす」理由になり得る。「あなたの適性は、我々大学が提供できる教育ではなくて、もっと他に生かす道がありますよ」と言えるようであって欲しい。

この2つを社会が認めていただけるなら、それぞれの大学がそれぞれの価値観・方針で入学者を選択し、それぞれの大学の持つ得意とする分野・方法で入学者を卒業まで育てることができる。それは今の大学の持つ能力を最大限に発揮する方法だと思う。大学が一定のマスの学生を集めて教育する集合教育の機関だとすれば、そこから外れる学生に個別に手当てをすることによってかかる手間、そがれる体力を、なるべく少なくして大半の学生に最大限の教育をするのが、効率的ではないだろうか。

もちろん、外れる学生をどうしてくれるのだ、という問題が出てくることは十分承知である。型にはまらない学生は落ちこぼれてよいのか? 今までの考え方は、まず義務教育は、すべての生徒に学ぶ権利があるのであるから、落ちこぼれさせることは許されないもので、それが全入の時代を迎えて、高校更には大学に延長されてきたように思う。 しかし、一方で社会は学生をマスで教育する機関に預けるという方法で、コストダウンを図ってきた。なぜ学校というところへ学生を集めて教育するかといえば、1人1人に教師が付くよりは、おなじような(似たような?)効果を得るのにずっとコスト的に安くできる、ということだろう。 その時設定される教育のレベルや仕組は「標準的な」マスの対象学生に適したものであり、外れた学生は十分にケアできないことになる。 外れていることが価値の上で良い悪いを議論するのではない。エジソンは学校を退学させられて母親が教育した。アインシュタインには言語障害があると言われた。 外れているから「ダメ」だとは決して思わない。だが、学生を集めて集団で教育する学校という仕組に合わないというだけである。個別にケアをすればよいのである。マスの教育をすることを前提にした現在の大学では、教員が個別に対応しようとすると、キャパシティを越えて疲れ切ってしまうのである。

c. 社会人の学びなおしの構造

いわゆるリカレント教育や、分野を変えて新しい勉強をするなど、社会に出てからも学ぶことができるようにするべきである。但し、そのためには社会的な理解が無いとできない。お金を貯めて、会社を辞めて、1年間学んで、新しい分野へ踏み出す。素晴らしいと思う。大学の入学時に選んだ専攻や、卒業時に選んだ就職先は、10年も経たないうちに変化してしまうだろう。また自分の適性についても、若いうちに思い込んだ向き不向きが間違っていることだってよくある。だからリカレント教育は門戸を広げるべきであるし、社会はそのようなやり直しを認める仕組になっているべきだろう。

2. グローバル化に対応した人材育成

a. 学生の双方向交流の推進(日本人学生の海外留学、留学生の獲得)

日本人学生が海外に出かけても、日本人同士かたまっているのでは、何の役にも立たないだろう。単位互換など制度を用意することと同時に、学生自身に外に出たいと思わせるような動機づけが必要だろうと思う。それも、単位のためではなくて、自分の人生のために。

留学生の獲得については、日本の大学の魅力、国際標準で測った時の魅力が何か、という点に尽きるのではないか。もし価値があれば、たとえ日本語習得が少々難しくても留学してくるだろう。自分自身のかかわる分野では相変わらず米国が先んじているので、自分がアジアの学生だったとして留学先は米国を選ぶだろう。 日本が留学生を獲得するためには、日本が得意な分野で教育をオープンにする必要がある。それをよく吟味する必要があるだろう。

b. 入試におけるTOEFL・TOEICの活用促進、英語による授業の倍増

提案として面白いが、実現性に難がある。最近の高校までの英語教育の低下は、授業時間数が減ったのだろうか、習熟の拙さに目を覆うものがある。入学直後のプレースメントテストで中学2年生程度の英語ができない学生が、相当数出てくるし、更に大学でまともに勉強しないものだから、4年生になって卒業研究を始める段になって英語の学術文献が全く読めない。TOEFLで米国の大学が受け入れるレベルを求めるというのは、グローバル化という観点から妥当だと思うのだが、全く期待できない。単にTOEFL・TOEICを使うだけ、要求点数ははるかに低い、というのでは、グローバル化には結びつかない。是非高校までに高校レベルの英語をきっちり使えるようにして欲しいものだ。

英語による授業は、留学生の受入れという観点から見ても、望ましいことである。しかし、現状で教員が日本人であり、英語でのディスカッションができるレベルでは到底ないのであるから、まったく成立しない。下手な英語で時間をかけてディスカッションをするのは意味が無く、ごく一部の特別な大学を覗いては、日本語でよいとすべきであろう。留学生にとっても日本語ができることがプラスになる場合も多いのではないか。

もし、大学教員の外国人の割合が1/3なり半数なりになれば、英語による教育は意味が出てくるだろう。それによるグローバルな位置を目標とする大学もあってよいと思う。(確か、会津大学が設立当初このような方針であったと聞いた記憶がある。) 学生は相当に落ちこぼれざるを得ないだろう。 また、高校までの英語教育が十分なレベルになるまでは、入学者数の確保が相当に難しかろうと思う。

c. 産学協同によるグローバル人材の育成

特にコメントはない。

d. 秋入学への対応等、教育システムのグローバル化

東大が秋入学の検討を公表してから、さまざまなリアクションがあった。私自身は、ギャップタームが必須になることはあまり賛成できない。大学入学前に高校以外の体験を積むことは、非常に価値があると思うので、たとえば入学前に就労経験があるというのは非常に良いことだと思うし、大学によってそれを必須化してもよいと思うのだが、半年ではあまり効果は期待できない。必須化するなら、むしろ2年とか3年であるほうが良いと思う。一方で、ギャップ無しで最短期間で入学・卒業できるのもあってよいと思う。社会のシステム全体として考え直すべき問題だろう。ただし、グローバル化の考え方は学生の移動にも教員の移動にも必須である。

3. 地域再生の核となる大学づくり(COC (Center of Community)構想の推進)

これは、あまり言い分が良く分からない。すべての大学にこれを求めるのは、筋違いだろう。日本で1つというようなユニークな大学であれば、地域に束縛される必要はあるまい。米国の例を見ても、全国規模で学生を集めたり研究者が行き来したり産学連携したりしている大学は多いし、それらはそれだけの価値のある大学である。

むしろ、米国で見られるように、大学が町の中心であるような町があると良いと思う。学生が集まると同時に、企業も周りに集まって大学と連携しながら新しい技術を開発する、といった枠組みは、日本でもできないはずがない。
4. 研究力強化(世界的な研究成果とイノベーションの創出)

教育を考えるうえで、格段のコメントは必要あるまい。当然である。
5. 国立大学改革

さしあたって、コメントしないで置く。
6. 大学改革を促すシステム・基盤整備

a. 大学情報の公表の徹底・評価制度の抜本改革・客観的評価指標の開発

さて、どういう大学運営をするかは、国立大学は税金で運営されるのであるから、国民が評価できる仕組みが必要だろう。客観性が求められるという言い分もわかるが、どういう客観性か? 客観的に評価できる指標は、おそらく限られた項目についてのみ可能だろう。それ以外の「よさ」は数字で評価できまい。そのような「よさ」を、切り捨てることになりはしないか? むしろ、オープンに議論できる枠組みさえ用意すれば、よいのではなかろうか。

私立大学については、評価をしようなどというのは論外ではないか? 社会が選ぶか選ばないかは、学生が行くか行かないか、企業が卒後教育に人を出すか出さないか、共同研究をするかしないか、などで十分に評価される。 選ばれなかった大学は消えゆくのみである。 一部だけの側面を取り出したおかしな「客観」評価をお国が出すと、却って評価にバイアスを掛けることにならないか? 補助金を出すか否かを決めるための「評価」はあってよい。 お国の方針に合わない大学は、補助金が出なくて当然である。自前でやってもらえばよい。しかし、大学としての認可を取り消したり、補助金以外の優遇措置を全面的に剥奪するのは、介入し過ぎのように思う。一方で、大学が「稼ぐ」仕組を許すべきであり、「免税なのであるから何が何でも設けるのはダメ」というのは、現実から見て少し厳しいように思う。この辺りのさじ加減は、まだよくわからないところもある。

b. 質保証の支援のための新たな行政法人の創設

スクラップ&ビルドで考えてほしいものである。国立大学の質保証・それに要する評価のための仕組は、必要なのだろう。天下りの温床とならないことを前提に、スクラップ&ビルドのようなことを考えてほしいものだ。私学に対しては、かなり余計なお世話という気がする。

7. 財政基盤の確立とメリハリある資金配分の実施【私学助成の改善・充実~私立大学の質の促進・向上を目指して~】

私学の財政基盤が弱いのだとすると、問題である。国からの補助が一切なくても、自前で大学が経営できなければならないだろう。自前で経営できてこそ、国からの干渉を払いのけて建学の精神にのっとった自由な教育ができるはずである。国からの補助を期待しているようでは、国の方針に逆らうような教育はできまい。もちろん、営利企業と同じレベルでの経営を望むのは、教育という分野から考えて無理があるのかもしれない。利潤を追求しないのであるから、non-profitな組織としての様々な恩典はあってもよかろう。それ以上の国からの援助は、むしろ「悪しきもの」と考えるぐらいの独立自尊の経営方針があってもよさそうであるし、それを尊重する文科省の姿勢があってもよさそうである。

国が策定する特別な研究プロジェクト・特別な教育プロジェクトに、国が資金を提供するのはあってよかろう。そのプロジェクトの範囲で国の言うことを聞くわけだが、その範囲に限定される。その大学の教育全体・研究全体に影響を及ぼすわけではない。

8. 大学の質保証の徹底推進【私立大学の質保証の徹底推進と確立(教学・経営の両面から)】

上の項目で既に議論した通り、私学の質保証は、国の仕事ではなく、ユーザつまり学生や企業・社会の選択でよいのではないかと思う。


文科省の資料「大学改革実行プラン」を斜め読みしただけでのコメントであるから、考え違いも多々あることと思うが、とにかく発表を見ての感想をまとめておく。自分の大学でこれをどう受け止めて、どう改革に結びつけるか、どう世間の改革と協調するか、今後具体的に検討しなければならない。

教育

Posted by yamanouc