「Flipped Classroom (反転授業)」と自分と

Flipped Classroom (反転授業)

最近いろいろな筋から、Flipped Classroom (反転授業と訳されていることがある)というキーワードが漏れてくる。いくつかリストすると、

上記の紹介で、最初の東大医学部山内准教授の記事からも読めるように、2つの点、つまり

  • (大学での、特に医学部山内准教授は医学部という中での)授業スタイル=Flipped Classroom=の考え方と、
  • その時に使う素材としてのビデオ教材、特にカーンアカデミーの活動と、

が議論されている。 2つを同時に議論するのもよいが、ここでは分けて考えてみたい。

Flipped Classroom (反転授業) という考え方について

出発点は基本的に、授業の時間が足りないとすれば、知識伝達は自習で行い、授業では応用や事例研究を介した思考力・分析力・対応力の醸成に時間を使おうというところにあるらしい。米国で、しかも小中高を中心に(例としてKnewtonの主張)、また大学でも(Stanford大の主張)、このようなことを言われているというのは「おもしろい」。

私自身が授業をしている中で、「どうも変だな」と思っている点と、かなり重なる部分がある。次に挙げるような点だが、日本固有の、また我々の大学固有の問題があって、かなり日本固有の問題だろうと思っていた。そうでないのかもしれない、というのが驚きである。

  • とにかく、必要な知識の伝達すら時間内には十分にできない。先生が「講義」をして、学生はノートを取る、という伝達方法がそれ程効率的だと思えない。
  • 知識の定着を考えると、ほとんど期待できない。試験の直前に一夜漬けをして、試験が終わると忘れてしまうであろう。試験のために授業を受けると思っている。上記2つは、学生が勉強(知識の吸収)に動機付けられていないことに拠るように思う。栓をした徳利にいくら水を注いでも一向に入ってゆかない。
  • 「理解する」と「覚える」が混同されている。すべて覚えようとする学生が少なからず居る。学びの動機付けとは別の軸として、この問題があると感ずる。
  • 授業外で学習に費やす時間は、ほぼゼロである。さまざまなアンケート結果を見ると、おそらく日本全体に蔓延している状況と思われる。(何と、2012年3月26日付の【審議のまとめ】添付資料31ページにも同様のことが論じられてあったので、いささか驚いた。そこまで蔓延しているのか)最大の要因は、動機付けられていないことと、卒業というハードルが低すぎて努力しなくても卒業できるため(高校も大学も)ではないか。
  • 教員は、授業外での学習(予習・復習など)をあきらめざるを得ない。小中高までにその習慣がない学生に、時間外に教科書を読み問題を解いてみるといった要求をしても、結局やらない、もしくはやれない。強制するために課題を出すと、結局コピーした答案を出すことになる。

動機付けに対して、今までは2つ、飴として成功した結果を見せること、鞭としてやらないと落とすぞ、と言うによって「釣る」ことを考えてきた。たとえば、前者は、次のステップの別の授業で使っているところを見せるとか、就職した卒業生に何が必要になっているかを話してもらうといったことである。 しかし、かなりの学生はそれすらも「ふ~ん、それで?」 と無視する。 後者に対しても、実際に大学がそれ程留年させるわけには行かないことを見透かされている。

というわけで、後は小中高までの教育の中で、学びに興味を持ち、十分に動機付けを行うしかないと思っていた。

(注: 小生は、必ずしも既存の学校の枠の中で動機付けられなくてもよいと思っている。昔から、既存の学校の枠に納まらない人が成功する例は、多々ある。ただ、親が子供を預ける以上は、学校=集団教育という枠組みの中で何とかなって欲しいし、個別に十分対応するのは集団教育の枠組み上困難である。だから、たとえばエジソンは、母親が個人教育をして成功したのだと思う。)

さて、Flipped Classroomへ戻ろう。 ここでの考え方は、単純な知識の習得は時間外の予習で行うことと、学校での授業時間枠はその知識の応用や発展、更には知識習得ではよく見えないであろう、そこに流れる考え方を習得するために使う。 たとえば、数学的な内容では、定義やその性質・公式のようなものは予習の範囲で一通り学び、その背景にある原理や考え方を授業時間内の議論で深める、といったアプローチができる。この授業の結果として、単なる定義や公式の記憶だけではなく、新しい考え方・それに必要な定義・それに必要な定理・公式などを自分で考え出すことができるようになるはずである。これが本来の教育の目標であると考えているようである。

成功の分かれ目は、自学自習で予習を行ってもらえるか、という点にある。 従来であれば、書物(紙に書いてある本、たとえば教科書や参考書)を与え、予習すべき部分を指定することによって、予習させることができた。 少なくともできた時代があったらしい。 小生の学生時代の日本では既に予習はあまり行われておらず、どちらかというと知識を授業時間で仕入れ、それの定着を問題演習の形で家に帰ってから行っていた。 現在の学生は、本を読むのは、小生の学生時代に比べて、遥かに苦手であるようだ。卒業研究の個人指導をしている場面でよく見かけるのだが、教科書を数ページ読んでその内容を理解するという作業すら、できない学生が少なくない。 学校による(受験勉強をどれだけやったか、それによって教科書や参考書に集中する力をどれだけ要求されたかによる)であろうが、悪くすると半数以上の学生が耐えられないのではないだろうか。 つまり、教師はいくら本や参考書やプリントを用意してもダメなのである。

Kahn Academyの例では、コンピュータ(ITC)を使って、興味を引いているように見える。 いや、教材のITC化というよくある話は、ほとんどすべてが目先を変えて学生をつっているように思う。 それについては、大いに異論のあるところではあるが、学生がついてきてくれるならこの際何でもよいと、腹を括る必要もあろう。 極論する人は、ゲームなら学生にやってもらえると言っている。 正しい。 何を使うにしても、学生が熱中するような仕組を用意する必要があるということだ。

では、仮に学生が予習をやってくれるとして、授業時間枠の中では教師はどう進めるべきだろうか。 実は、知識の習得の部分があまり深くない科目、たとえばごく入門的な科目で一般常識が前提知識となるようなものや、おそらく文系寄り・一般教養寄りの科目では、討論型の授業がさまざまに提案・実践されている。 小生の授業でも、学期の始まったばかりの最初の部分は前提知識がほとんど常識で済むので、かなり討論が可能であり、実際に幾つか試している。議論のファシリテーションのスキルが必要となるが、(小生はあまりうまくないのだが)、ある程度は議論を深め、本質的な部分を学生が自ら導き出すこともできる。 しかし、それから先は、学生が四種をしてくれないと、進行が難しい。

というわけで、知識の予習の部分については、これから更にいろいろと試して見なければならない。 うまくゲームにできるか、それとも単純なコンピュータ画面(ITC)でゆったりと進めるか、検討の余地はあると思っている。 また、小学生などを対象にした「公文式」などのやりかたも、大いに参考にさせていただける部分がありそうだ。単位を小さくして、少しずつ進めること、それによって到達感を得ること、繰り返してドリルをすること、できなければやり直すこと、などのポイントである。 これらはかつて、コンピュータを使った教育システム(CAE)でもメリットとして主張されてきたことであるが、現実には、教材を作るのに多大な労力を要し、特に繰り返しや戻りのために複数の問題のセットを作る必要があるし、それに加えてステップごとに達成をチェックしなければならないのでその問題を準備することも、大学レベルの内容ではかなり大変になるだろう。 その辺りでの妥協点を探さなければならない。

教育

Posted by yamanouc