「近頃の若い者はカタカナばかり」

「近頃の若い者は」と言い出した時が老化の始まりなのだそうだが、よく聞くことに「近頃の若い者はカタカナばかり」(言い尽くされている?)がある。これについて、ふと思った。

新しい言葉を生み出すのは、必要があるからである。つまり、その概念を表す的確な表現が手元に無いから、作るのである。たとえば、「手紙」という言葉(訳語?)があるにも拘らず、「メール」と呼ぶのは、電子メールは手紙(=紙媒体で配送してくれる)とは違う概念だからであろう。英語ではmailは両方を指すから、文脈で区別したりe-mailとしたりするのである。だから、新語の発明には必然性がある。

そも、我々の先達たちはたくさんの新語を作ってきた。我々が気づいていないだけである。特に江戸から明治になるころ、世の中が大きく変わったとき、先達たちは西洋文明から(日本にない新しい)概念を輸入するに当って、さまざまな言葉を作った。思いつくままに挙げてみると、「経済」という言葉は福沢諭吉が作ったとどこかで読んだ記憶がある。「郵便」は前島密か後藤新平あたりか?この時代は、とにかく新しい概念を輸入するのに「訳語」が必要になったから、うまい言葉を作った。このあたりの造語センスは、漢文の素養が光っていてすばらしい。一方で、古い人たちは「わけのわからん言葉ばかり使って、よくわからん」などと批判したのかもしれない。

その後明治になって落着いてからも、いろいろと新語が作られているそうだ。その昔に漱石の「吾輩は猫である」を読んだときにひっかかったのが、「月並み」という言葉を珍しそうに語っていることで、想像するに当時新しく作られた新語であったのだろうと思う。(もし間違いならごめんなさい。) 最近は「月並み」なんて使わなくなったけれど、ちょっと古い人なら耳慣れた言葉であろう。それが漱石の時代には耳新しかったのだと思う。

その文脈から、2つのことが提案できる。1つ目は、今「カタカナが氾濫して困る」という向きに対して、既に使われているカタカナ言葉を置き換えるべく、和語漢語からより「よい」言葉を作ろう、ということ。2つ目は、今から作る新しい言葉(流行語)も同様の工夫をしようということ。

たとえば、「バス」がカタカナで気に入らないとすると、昔の言葉で「乗合自動車」と言ったことを思い出して、それを今風に縮めると「のりじ」というのは如何か?響きは今風だが、語源は間違いなく漢語である。馬鹿馬鹿しい?

新しい概念について、一昔前にコンピュータ技術が導入される時に、言葉を作るべきだとおっしゃった先生方が居られた。(最初に言われたのがどなたであったのかは、よく調べていない。)プログラムを算譜、サブプログラム(関数とかサブルーチンとか)を副譜、プログラムを作ることを作譜、アルゴリズムを算法、など。結局はあまり使われていないが、その理由はおそらく、「カタカナの方がかっこいい」のと「概念の流入速度に比べて造語の速度が遅すぎる」ことだと思う。直輸入のカタカナ言葉が使われ始める前に、訳語が流布しなければならないのである。今時の進行速度では、とても追いつくのは難しかろうが。

twitterが、ツイッターと共につぶやきという訳語が用いられているのは、興味深い。もちろん、twitterの代わりにつぶやきと言っているのは少ないが、「つぶ」と略してみたり、数える時に「1つぶ」と言ってみたり、その背景には語感のよさと、ある種の「和語のかっこよさ」があるようにも思う。和語が定着する前にtwitterが飽きられるかもしれないが。