猪瀬直樹氏「「“ひとり”が怖い」と「ハーバード白熱教室」を観て」を見て

日経BPのページで、
猪瀬直樹の「眼からウロコ」  日本と外国の若者の差がどんどん開く  「“ひとり”が怖い」と「ハーバード白熱教室」を観て 2010年5月11日
と言う記事を見た。かなり恐ろしい話である。

この論評の中で、産経新聞に載ったという石原都知事のコメントが参照されていて、そこでは「若者のひ弱さ」とくくっている。それでいいのだろうか?猪瀬直樹氏は「ハーバード白熱教室」と比較して、日本=横のコミュニケーション・受身のコミュニケーション・横のチームワーク、アメリカ=異質のチームワーク、とし、異質のコミュニケーションが求められる中で言語教育に期待、と終わっているが、これもそれでいいのだろうか?

同じ事を感じているのかもしれないが、どうも私にはこれらの表現ではうまく掴めない。 コミュニケーションや人間関係作りではなくて、「お上」への依存性のような気がしてならないのである。誰かが何とかしてくれる、自分が恐怖に耐えてまで踏み出さなくてもいい、責任を取らなくてもいい。「ひ弱」というよりは不都合なことは何もしないで済まそうという「甘え」ではないのか? 甘えても生きていける状況がある、ということなのではないのか?

確かに、アメリカでは子供の時から主張することを求められる。世代を超えての議論も求められる。子供の時から、他人が苦手でも思想が違う相手が苦手でも年代差が苦手でも、コミュニケーションをすることが求められ、訓練される。大学生にもなれば訓練によってその敷居が低くなっているから、容易にディスカッションクラスが運営できる。

多くの子供は、最初は人見知りをするはずだ。それを、いつかの時点で「社会化」を訓練して、社会に生きる人間になる。その「社会化」のプロセスはかなりの痛みを伴う。叱られたり、叩かれたり、見捨てられたり、親の保護とは別の厳しい世界に入らなければならない。その障壁に立ち向かうのは、つらいし決心が要る。昔なら、無理やり放り込まれていやいや「社会化」の洗礼を受けることになる。親だけに守られて家の中にいればヌクヌクと育つことが出来るが、それは許されなかった。なぜなら、人間は社会の中でなければ生きられないからだろう。

ところが、核家族化や、都会化による地域コミュニティの消失により、あたりまえに在った社会化のプロセスが無くなってしまったし、無理やり放り込まれることも無くなった。学校は(いまのところは、大抵の場合)同一学年でのクラス編成であり、同一年代間での仲間作りしか出来ない。自ら求めて、「社会化」のつらいプロセスを踏むよりは、社会も裕福になったことだし、親の庇護の元で家にこもって生きる若者があっても、不思議ではない。

しかし、社会がうまく運営されてゆくには、「社会化」のプロセスは必要だ。ではどうするか?若いうちに、できれば高校のうちに大人の社会へ引きずり出して、「社会化」の洗礼を受けさせるのがよかろう。さまざまな施策を総合的・系統的に動員する必要がある。たとえば、小学校のうちにも社会に加わって何かをする、例えば人を助けるようなことをするのもいいだろう。いろいろな仕事を体験見学してみるのもいいだろう。地域のコミュニティを復活させるのもよいだろうし、クラブ活動もよいだろう。それらが「社会化」という視点から協調するように仕組んでやる必要がある。

また、高校を卒業した時点でいっぺん働かせるのもよいと思う。お金のためでなく、「社会化」のために、そして社会の中で自分の位置付けや役割を考えるきっかけを得るために、高校卒業後1年間就労させ、その成果を見て大学に進学させる。なぜこれを言うかというと、現在大学の中でキャリヤ教育の拡充が強く求められているが、その中で「自分の社会の中での位置付けを考え、社会の中で何をするのかを考える」が最も問題になるからである。はっきり言って、大学でこのポイントの教育は手に負えない。なぜなら大学自体が片寄った特殊な社会で、その中にいることによって身をもって自分を考えることのできる社会ではないからである。大学内でこの点を「教育」しようとしても、結局は机上の空論、絵に描いた餅を説明しているに過ぎない。加えて、この種の意識付けは、大学へ入ってからでは遅い。大学の勉学は自分の人生の方向付けに基づいて選択され動機付けられるものであって、方向付けがなく動機もない学生は大学の面倒な勉学をこなすだけの理由がなくなってしまうのである。

我々は、若者にどういう環境を与え、どう育って欲しいかを、根底からもういちど考え直す必要があると思う。

(追記) 池上彰 「そうだったのか! 中国」 に、人口抑制のための一人っ子政策の結果、家庭内で非常に大事にされる一人っ子「小皇帝」が増え(or 当然になり?)、肥満の割合が多い、といった記述があった。これも似たような運命を辿る気がした。ちょっと前には、これらの一人っ子が社会で生き抜くために上位大学へ入学すべく、受験戦争になっている、という話だが、さてそれを超えて(日本でも1980年代ぐらいまでは受験戦争があった)経済成長が鈍化すると、未成熟引きこもりが目立つようになるのではないだろうか?